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ワールドウォッチ21世紀シリーズ

『エコ経済への改革戦略』


(デヴィッド・ルードマン著/福岡克也監訳/環境文化創造研究所訳/地球環境財団日本語版編集協力/社団法人家の光協会刊 1900円+税)

エコ経済への改革戦略

日本語版に寄せて

謝 辞

第㈵部 二一世紀を拓く自然国富論
第1章 改革へ市場の力を生かす

第㈼部 汚染を拡大する補助金
第2章 補助金の体系
第3章 資源への補助金
第4章 所得補償などの補助金(現金補助金)
第5章 インフラストラクチャーへの補助金

第㈽部 新たなパラダイムシフト
第6章 汚染者向けの補助金
第7章 資源がもたらす「たなぼた利益」を捕捉する
第8章 非汚染者には報いる
第9章 汚染者に課税する

第㈿部 パラダイムシフトの理論から実践へ
第10章 環境税に期待できること
第11章 改革の痛みは公正に
第12章 減税はどうすれば可能か
第13章 環境にやさしいエコ経済への改革
第14章 政治に期待される真の役割

監訳者あとがき


日本語版に寄せて

 二〇世紀は、市場の世紀と呼べるだろう。一九〇〇年、世界の経済は二兆三千億ドルのモノとサービスを生産した。そして一九八七年には、日本の経済生産高がこの数字を追い越し、世界の経済生産高は、今では年間四〇兆ドルに達している。金銭の視点で見れば、世界は、かつては一年かかっていたものを、今では三週間で生産しているのである。

 これほどの成長を可能にしたものは何だろう。答えはさまざまだが、一つにはアダム・スミスが『国富論』のなかで最初に見出したこと、つまり、売り手と買い手が村の広場やコンピュータのネットワーク上で自由に出会えるようにすることは、経済活動を行うための一つの効率的な方法であるという発見があげられる。ソ連圏の政府は市場をなくしてしまったのが、結局は、計画立案を行う自らの官僚機構の重圧によって衰退してしまった。このように、二〇世紀は人類に痛烈な教訓を与えた。つまり、私たちは、子どもたちにあまねく教育を施すといった重要なことがらのために政府を必要とする一方で、健全な市場なくして経済の発展はあり得ないということである。

 もう一つの答えは、新しい世紀にやっかいな含みを残すもの、つまり、人々が地面の下の化石燃料に含まれるプロメテウスのエネルギーを利用する無数の方法を発見したことである。石炭は、イギリスで最初の産業革命を活気づかせたが、その一世紀ほど後、車や飛行機が発明されると、石油が化石燃料の王者として石炭を追いやった。

 一八九六年当時、科学者は、このときすでに芽を出しかけていた人間と化石燃料との関係は、本当に悪魔との取引かもしれないと示唆し、化石燃料の燃焼で発生する一見無害に見える排気ガス(二酸化炭素)はすでに大気中に蓄積されていて、温室のガラス屋根と同様に地表面を暖めている可能性があると語った。そして一〇一年後、世界が化石燃料を燃やして二酸化炭素を排出する速さは一五倍になり、人間は将来を賭けたばくちをやっているということ、つまり科学者の予見がおそらくは正しかったであろうことが明らかになった。世界中の外交官はこの問題に対し何を成すべきかを見つけるため、一九九七年一一月に京都に集まった。

 しかし、さほど大きな成果は得られなかったばかりか、森林の乱伐や漁業資源の枯渇といった山積みの地球環境問題への対策もない。その理由は驚くようなものではない。天然資源の基盤を維持できず枯渇させてしまう傾向を後退させながら、数十億人に経済の繁栄をもたらすという二〇世紀の一つの特徴的な傾向を持続させるには、産業経済の内部の仕組みを大々的に変える必要があるからだ。デヴィッド・ルードマンは本書のなかでこう記している。「それは環境にやさしいエコ産業革命に他ならないだろう。衰退する企業もあれば上向いていく企業もあるだろうが、多くは急速に発展するだろう。たとえば気候変動の防止には、先進国が主に化石燃料の燃焼によって発生する炭素の排出量を九〇パーセント削減しなければならないだろう。こういった変化は、人々がどこに住み、どう移動し、小さなビンから大きなビルディングにいたるまで、すべてのモノをどうつくり出すかといった事柄に影響を及ぼすだろう」。ところが、この問題を正面から受けとめて、じっくりと考える用意のできている政治家はほとんどいない。

 しかし、もし各国政府が、二一世紀の人類の将来性を損なうような事態を真剣に避けようと思うなら、環境の持続可能性という問題を直ちに本格的に取り上げなければならない。その場合、どうやってそれを解決できるだろう。この問いに対しても、答えはさまざまである。そしてまた、そのひとつが市場である。必要とされている変化がきわめて大規模であるというまさにその理由のために、どの政府も単独での計画立案は不可能である。それとは対照的に、市場は、急激な経済改革を導入し強力に推進することに関しては、強力な実績をすでに有しており、二〇世紀全般にわたってそれを実行してきた。この市場の力を正しく活用すれば、次世紀にも同様のことができるだろう。

 本書は、その市場の活用法を示している。意外にもその鍵は財政政策にある。各政府が汚染や資源枯渇につながる活動に課税し、毎年六五〇〇億ドルにのぼる補助金を廃止すれば、地球に損害を与える行為の市場価格が上昇するだろう。時を経て環境税が高くなれば、世界経済は生態系と類似点を持つようになり、無駄を出さず、リサイクルを繰り返し、母なる地球が分け与えられる以上のものは採取しなくなるだろう。

 もちろん、これほど重要な発想がそれほど単純であるはずはない。環境税の税収でどの税金を削減すべきかという問いへのアプローチを絡ませながら、これまでの経験から政治面での障害にいたるまで、環境税のあらゆる点を詳細に検討しながら、二一世紀の最重要課題に向けたもっとも有効な解決の糸口を示しているといっても過言ではない。

 このルードマンの著書は私の編著である『環境ビッグバンへの知的戦略』に続き、社団法人家の光協会が日本語版の出版を引き受けてくれた。さらに、この後も同協会ではワールドウォッチ二一世紀環境シリーズとして『生態系を破壊する小さなインベーダー』の日本語版を予定している。同協会が「農と環境の二一世紀」へ、積極的な出版活動をしてくれることは大変に心強い。また、地球環境財団の福岡克也理事長、環境文化創造研究所の黒澤聰樹理事長の両氏は、今回もさまざまな局面で日本語版出版に協力してくれた。

 このシリーズがより多くの人々に読まれ、世紀を超える改革に向けて、それぞれの立場を活かしていただければ幸いである。

   一九九九年八月
ワールドウォッチ研究所 所長 レスター・ブラウン 


第1章 改革へ市場の力を生かす

 市場システムについて特徴的なことは、エジソンの電球のようなものとは異なり、特定の誰かが発明したものではないということである。市場は自然の成り行きで発生し、有史以前から人々が黒曜石を羊などの毛皮と交換して以来存在してきた。オーストリア系アメリカ人の経済学者で熱心な市場を論者であったフリードリヒ・フォン・ハイエクは、「私は、読者に衝撃を与え、市場メカニズムの作用を軽視しがちな独断から解放するために、これに驚嘆すべきものという言葉を敢えて使ってきた。もし市場が人間の慎重な設計の産物であるならば、またもし価格変動に左右される人々が、自らの決定が単に目先の目的をはるかに超える重要な意義を持っていると理解したならば、市場のメカニズムは、人間の心のもっとも偉大な勝利の一つとして熱烈に支持されただろう」と述べている。しかし、ポーランドから北朝鮮にいたる各国の政府はそろって市場を追い払い、経済を管理する手段として市場の有効性が二〇世紀においてしばしば過小評価されてきた。

 自然発生的に生まれてきたため、市場の価値を過小評価した人がいても、それ以外の人々は市場の力に魅力を感じ、その欠点は見過ごされてきた。しかし新しい世紀が近づくにつれ、構造上の欠陥がますます危険に、そしてますます明白になりつつある。産業活動による多くの負荷コストは、市場には組み込まれていない。たとえば、ドイツのシュツットガルト近くの石炭火力発電所から排出される微細な粉塵は、周辺住民の間で、時には命取りとなる喘息発作の引き金になる。同様に排出される二酸化硫黄は酸性雨の原因となり、風下の建物や漁場のある湖や河川に被害をもたらす。森林は一九八〇年代にすでにきわめて深刻な酸の被害を被っており、ドイツでは死の森(forest death)という言葉が造られたほどである。一方で、石炭火力発電所から排出される炭素は、地球の温暖化を加速する。採炭者は、炭鉱内に渦巻くラドンや石炭の塵によって、体が衰弱する肺疾患に苦しんでいる。そして坑道の入り口に積まれた廃棄物の山からは、地下の帯水層へと有毒化学物質がしみ出している。

だが、このような事柄のコストが電気料金の請求書に表れることもない。ヨーロッパ委員会が行った徹底的な調査によれば、仮に環境コストが他のコスト同様消費者に戻ってくるようなことがあれば、石炭火力発電所で作られる電力の価格は、一・五倍に跳ね上がるだろうという。しかし、現実にはコストは消費者には戻らず、石炭による電力は安いままで、風力のようなクリーンな代替エネルギーは苦戦している。

 この話が示すように、現在の環境問題の背後にある主要な問題は、ドイツのヴッパタール研究所の創設者であるエルンスト・ウールリッヒ・ヴァイツゼッカーの言うように、価格というものが生態系の情報を何も伝えていないということである。市場は経済発展の強力な手段ではあるが、そこで扱う物財が生産される現場では鋸やシャベル、煙突など、環境保全よりも、むしろ破壊の手段になっている。環境コストは、それを押しつける人々からは見えないようになっているので、産業経済は、まるで汚染が無害であるかのように空気や水を汚し、資源が無尽蔵であるかのように消費する傾向がある。公衆衛生や将来の世代のための環境保全が金のかかる贅沢だと片づけられる一方で、都市のスモッグや森の枯死は、遺憾ながらも経済発展への避けられない道程と見なされることが多いのはこのためである。

 人を欺く価格も、個人の家計収支の調整が地球の破産につながってきた理由の一つにもなっている。たとえば、多くのアメリカ人にとって、牛乳を買うのにわざわざ車を走らせなくてもすむような、便利のよい地域に手ごろな価格の家を見つけるのが困難なことも一つである。あるいは、燃費に優れ汚染が極端に少ないトヨタの新車プリウスを入手することも必ずしも楽ではない。トヨタは、この車が標準タイプに比べ割高であるために、ガソリンがビン入りの水よりも安い国では競争できないという理由で、アメリカでの販売を見合わせていたからである。さらに、太陽や風から作られたエネルギーにはアメリカ人の多くが割増料金を払うだろうという調査結果にもかかわらず、大半の住民はそれらを買うことができないなどである。

 環境にとってきわめて大切なことを実行するのが、なぜこんなに大変なのかといぶかる人々が市場システムを非難したい衝動に駆られたとしても当然である。経済活動を導く価格のシステムは、それ自体に欠陥がある。問題はそれをどう正すかである。いままでのところ、環境の保全に支配的な役割を果たしてきたのはさまざまな規制である。しかし、規制だけで、あるいは実際に取り締まりにあたる担当者だけで、産業社会を再構築するのは不可能である。なぜなら、中央による計画立案は、それを試みたほとんどすべての場所で挫折しているからである。他の手法も必要だろう。

 環境面で持続可能なエコ経済の創設は、まさに環境にやさしい産業革命を必要とする。それは政府の既存の計画に挑む徹底的かつ緻密な改革である。沈む産業もあれば浮かび上がる産業もあるだろうが、多くは急速に発展するだろう。現在の本質的な使い捨て社会とは異なり、持続可能な経済は、健全な生態系と同様に物質をリサイクルし、再生可能な資源からエネルギーを取り出し、きわめて効率的にそれらの資源すべてを利用する。資源の利用を環境から見て持続可能なレベルにまで削減し、一〇〇億もの人々から成る地球共同体のなかで割り当てるには、一人当たりのエネルギーや木材、鉱物、水の使用量を大幅に削減する必要がある。たとえば、気候変動を避けるには、先進国は、主に化石燃料の燃焼に起因する炭素の排出量を九〇%削減しなければならない。これらの変化は、人々がどこに住み、どのように移動し、小さなビンから大きなビルディングにいたるまで、あらゆるものをどのようにつくるかといったことがらに影響を与えるだろう。

 この変化のいくつかはすでに実用段階にあるが、実現はしていない。技術者や建築家たちは、木質以外の農作物から紙を作る方法や、自転車や徒歩が便利な都市や街づくりの設計方法を知っている。あるいは既存のモデルよりも三倍も燃費のいい車を設計したり、木材の代わりに土から手ごろな価格の家を造ることもできる。

 環境保全の進展は、クリーンな新技術の開発促進にも左右されるが、本来は予測不可能な発見のプロセスであり、いかなる機関もその計画を立てることはできない。

 一方、市場は全体的な変化を計画し実行することが得意で、産業革命や数値を用いる改革を可能にした。的確に活用すれば、市場は次の産業革命を環境の持続可能性を目指す方向に向けられるだろう。その鍵は、環境に害を及ぼす活動を行う者にその損害に見合う責任を負わせるべきだとする「汚染者負担の原則」を、各国政府が強力に実行することである。この規範的な考えは、八〇年前にはじめてケンブリッジ大学の教授アーサー・セシル・ピグーによって提起され経済学(厚生経済学)の威厳をまとい、それ以来、経済学の教科書の中心的な内容になっている。しかし、それでも「汚染者負担」はかけ声ほどには実践されてこなかった。
 政府が「汚染者負担」を遵守させるもっとも直接的な方法は、環境を害する行為(環境負荷)への課税である。たとえばドイツでは、石炭火力を利用して生産される電力にたいして、一キロワット時ごとに隠れた環境コストを反映させる水準での課税ができるようになった。その税金は、風力のようなよりクリーンな形態のエネルギーに一層の競争力を持たせる方向に使われるだろう。電気料金が上がれば、各世帯ではエジソンの傑作である電球を外し、四倍も効率のいい最新の蛍光灯(曲げた蛍光管を電球の大きさの容器に入れたもの)に取り替えるだろう。

 環境税に代わる選択肢として、政府が汚染排出権や資源利用権を競売にかけ、その後は企業間での権利の売買を認めるという方法である。一九九七年に京都で行われた気候変動条約交渉の担当者は、温室効果ガスに関して、各国に割当てられる排出権この取引の可能性に道を開いた。汚染権も取引可能な商品として仲間入りすることだろう。

 このような二つの方法の類似点は、環境保全を取引の機会と解釈して、汚染や資源の枯渇に価格を付けることにある。企業や消費者が環境に与える害を減らせば減らすほど、節約も可能になるわけである。最低限の基準を定める大半の規制とは異なり、市場ベースのテクニックは、人々の柔軟な対応を制限することなく、改善に向けて継続する刺激を与えられる。多くの国の経験が示すのは、企業がそのような機会に飛びつき、資源を保護し汚染割合を大幅に削減する技術を、しばしば驚くほどの低コストで創造するということである。環境税や排出権システムはともに、問題解決における創造性という人間のもっとも偉大な才能を開かせる。

 増税は、「汚染者負担」の考え方においては悪いニュースのように聞こえる。しかし、税の負担はすでに多くの国でかなり重くなってきており、これは皮肉にも良いニュースである。つまり、新しい環境税や排出権の競売で得られた財源で削減すべき税金はたくさんあるということだ。課税対象のシフトは増税にはならない。現在、世界で毎年徴収される七兆五〇〇〇億ドルの税金のうち、約九五%は賃金や個人所得、企業利益、キャピタル・ゲイン、小売売上、貿易、不動産への課税であり、本質的にはすべて労働や投資へのペナルティーのようなものである。賃金や利益に二〇%〜五〇%の税率を適用し、汚染を非課税にするなら、公平でないばかりか経済的にも賢明なやり方ではない。各国政府による課税は、破壊的な活動には不十分で、建設的な活動には重すぎる。

 環境税というアイディアが、誕生から八〇年もたっているにもかかわらず浸透するのに時間がかかった一つの理由は、環境保護主義者や政府の計画立案者が、立ち入った干渉をする機会の少ない税金による取り組みよりも、規制という確実性を歴史的に選好してきたためである。たしかに、規制も多くの成果を上げてきた。煙突・排気管、配水管からの排出物を取り締まり、DDTなどの化学物質を徹底的に禁止した。一方で、市場志向のアプローチには、独自の限界がある。たとえば、都市部を走る何百万台もの車から排出される汚染物質を測定し課税することは非現実的である。多くの環境保護主義者や政策立案者らに明らかになってきたことは、可能であれば企業の持つ問題解決能力に任せる部分を増やしながら、二つのアプローチを統合することの利点である。しかも彼らは孤立しているわけではない。ヨーロッパ連合やアメリカの世論調査では、「環境にやさしい税制改革」というアイディアが明らかになると、回答者の七〇%がこれを支持したのである。ヨーロッパ北部では、ヨーロッパ労働組合連合(European Trade Union Confederation)やヨーロッパ産業及び雇用者同盟組合(Union of Industrial and Employers' Confederation of Europe)など、多くの政治団体が支持を表明している。

 市場志向の環境保護政策については、これまでの予備的な経験からも希望が持てる。カナダから中国にいたる各国が、ガソリンや農薬から硫黄や炭素の排出まで、ありとあらゆるものに数多くの環境税を課してきた。環境保護に十分に役立つほどの高い税率や厳しい許容上限を達成できたのはきわだったほんの数十例だけだったが、これらは、的確に実行した場合のこのアプローチの有効性を証明してみせた。オランダは、税金を利用して、さまざまな水質汚染をもたらす産業排水を七二%ないし九九%削減した。アメリカは、オゾン層を破壊する化学物質の漸次廃止に税金を活用している。ニュージーランドは、売買可能な排出権システムを用いて、漁業の大部分を規制している。ヨーロッパでは、六カ国が、一九九一年以来、環境に有害なものに対し増税した分を直接従来の税金の減税につなげるという将来性のあるステップを採り入れている。減税となるのはほとんどが支払賃金への課税だが、この税金は労働者を企業にとってよりコストのかかる存在にしており、失業の一因になっているものである(九章参照)。

 しかし、「汚染者負担」が意義をもつにもかかわらず、「汚染者への補助金」がいまだに多くの国で行われている。たとえば、ドイツは毎年七三億ドル(一九九七年のドル価格換算)を国内の古くてコストのかかる炭坑の競争力維持に費やしている。電力を買う側がこの補助金を支払わなければならないとしたら、シュツットガルトの石炭火力発電のコストは現在の料金より六〇%も高くなるだろう。世界全体では、さまざまな補助金政策によって、少なくとも毎年六五〇〇億ドルが、採鉱や森林伐採から車の運転にいたるさまざまな環境を害する活動へと流れているが、これらの活動がもたらす環境影響への対策にも政府は数十億ドル以上を、別途に支出しており、実に愚かな状況になっている。

 このほかにも、自然資源の採取あるいは利用がもたらす「たなぼた式の利益(訳注:原文はwindfall profitsで原初的には「風で落ちている果実を拾って得をする」というような意味から派生しており、経済学用語では「意外の利潤」などと訳される。しかし、本書では「たなぼた利益」とする)」も環境保護への歳入源となるが、いまのところ実現されているのはほんの一部だけである。一例をあげると、現在アメリカ政府は、公有地から採取される金や白金などの鉱物には料金をほとんど課していない。しかし、適正なロイヤルティーを課せば年間数十億ドルを徴収でき、現在の採掘巨大企業が甘受しているたなぼた利益をなくすことができるだろう。同じように、多くの発展途上国が熱帯雨林の伐採権を本来の価値をはるかに下回る価格で販売している。そのほか、潜在的に顕著な歳入が見込めるものとして、自然資源とは言えないが、携帯電話やテレビの放送網を対象にした電波の競売やリース、あるいは周辺のインフラ整備への公共投資や地上・地下にある資源の稀少性によって地価が上昇したときに生じるような、たなぼた利益をいま以上に捕捉するといったことがあげられる。
 要するに、汚染や資源利用への補助金の大半を漸次撤廃し徐々

税金を賦課していけば、政府に多額の資金がもたらされ、それを財源として従来の労働や投資への課税を削減することも可能になるだろう。将来的な税制改革の規模は、時とともに、あるいは地域や世帯によっても異なるだろう。しかし、大まかな予測では、自然資源の利用や酷使に対する補助金の九割を廃止し、完全に課税できれば、毎年二兆四〇〇〇億ドルが調達でき、従来の税金を三分の一ほど縮小できるだろう。言い換えれば、この金額は、多くの国で所得税や売上税、賃金税を廃止するに足るものである。先進諸国では、増税や補助金の削減によって、一人当たり年間およそ二〇〇〇ドルないし二五〇〇ドルの負担となるが、同時に減税によって同じ税金を支払わずにすむようになるだろう。発展途上国や旧東欧圏諸国では、賃金が先進国よりも低く、変動の幅は四〇ドルないし五〇〇ドルほどと予想される。財政の歴史を長い目で見れば、この変動はとりたてて大きくもなければ急激でもないだろう。現在の税制を支配している徴税制度は、一九〇〇年にはほとんど存在していなかったのである。
 さて、環境財政改革で環境破壊を抑えるにはどのようにするべきか。それは破壊がその実態どおり高くつくものであることを認識させることだろう。汚染や資源の枯渇が発生した場合、この改革によって、公共の財源にはいま以上の資金が確実に流れ込み、それが他の税金の代わりとなるだろう。要するに、改革とは、我々が受け継いだ自然資源を持続不可能に酷使して儲ける個人の利益を、持続可能な利用から得られる集団の利益に置き換えることである。マサチューセッツ工科大学の経済学者ポール・クルッグマンは、ニューヨーク・タイムズ誌に二〇九六年から回顧する形式の物語を書いたが、そのなかでこの改革の潜在的な規模をそれとなくほのめかしている。「一九九〇年代初めには、政府は、数種類の汚染物質の排出権の売買を電力会社に認めるようになった。その原則は九五年に拡大され、政府は電磁スペクトルの権利をも競売にかけ始めた。認可料が政府の主な歳入源となり、度重なる減税ののち、連邦政府の所得税はついに二〇四三年に廃止された」。

 政策の著しい変化を求める提案に関しては、どんなものであれ、最初にその考えに出くわした思慮深い人々の心に重大な異議申し立てが浮かんでくるのが常である。採鉱への補助金は雇用を守っているではないか? 新しい環境税は貧しい人々を傷つけ、国際競争の場で国内企業を拘束することにならないか? 汚染権の売買は悪いことではないのか?

 本書はそれらの、そしてそれ以外の懸念についても詳しく検討していく。その多くは真実の全体ではないが重要な部分を含んでいる。しかも実践的かつ率直な方法で理解できるだろう。たとえば、第二部で詳述しているように、今日の政府の環境に対する財政面の姿勢を示している有害な補助金は、納税者や環境資源を消耗させていると同時に、その設定当初の目的にもかなっていない。経済成長促進、雇用確保、消費者保護のどれにもほとんど役立っていないばかりか、マイナスに作用しているケースもある。第三部は、それに代わるビジョンの要素について解説する。その財政政策は、ほとんど環境を害さない支出を伴い、環境保護に向けて補助金を賢く活用し、税源としては資源のたなぼた的な利用や環境破壊活動への課税に大きく依存し、従来の税金は大幅に削減するものである。

 第四部は、この分野のパイオニアの例をあげながら、新たなアプローチの実用性、公平さ、経済的な影響を検証する。たとえば、第一一章では、立法者が国内企業に環境税を適用する場合、海外の企業が不公平な利益を得ることのないよう、輸入品に対して同程度の関税をかけるべきだと示唆している。そして、貧しい人々を値上げから守るため、特別な措置も必要になるだろう。

 最後の章では、改革が急がれるときにしばしば行き詰まりの主因となるもの、つまり政治と対決する。ここで提案する一兆ドルの財政改革は、本質的に著しく政治的なものである。現在の環境に有害な補助金がいつまでも存続しているのは、実は、健全な政治論理よりも助成を受ける側の影響力が強いことの証である。敗者になるであろう人々が変化を阻むために常に抵抗するその意欲は、勝者となるであろう人々の変化を促す意欲よりも激しく、それが環境税導入に向けた進展を遅らせている。政治の世界はそれ自体が一種の市場であり、通貨にあたるのが投票やキャンペーン、寄付、そして賄賂である。この政治市場の現実は、環境を保護するための経済市場の活用を目指す時、実際の提案に採り入れられなければならない。

 市場は「国富論(the wealth of nations)」の鍵になると気づいたアダム・スミスは正しかったが、現代という時代は、私たちにスミスの見識を見直すよう求めている。今日の市場システムは、環境面に、そしてひいては経済面に大災害を引き起こす恐れがある。現代の人類最大の課題のひとつは、一八世紀ヨーロッパの啓蒙運動から急激に高まった産業の活力を、消滅させることなく取り込むことである。市場が「自然国富(the natural wealth of nations)」を保護し始めることになれば、各国政府はその資金の調達と支出方法の詳細な見直しを余儀なくされる。「自然の富」なくして他の富は存在し得ない。徹底的かつ慎重に環境税を導入し、支出改革を行えば、世界の社会はより健全に、安全に、繁栄していくだろう。水も空気も安心して体内に摂り込めるようになるだろう。自然資源の利用は、環境面から見て維持可能な水準にまで抑えられていくだろう。労働や起業行為への課税は減少するだろう。開発よりも環境保全が経済発展のモットーになるだろう。要するに、環境を重視した財政政策への改革によって創り出されるであろう世界は、シュツットガルトであれサンチャゴであれ、多くの人々が、孫の世代に受け継いでもらいたいと思うような世界になるだろう。