一つ前のページに戻る(Javascriptを使用します)

ワールドウォッチ21世紀シリーズ

『生態系を破壊する小さなインベーダー』

(クリス・ブライト著/福岡克也監訳/環境文化創造研究所訳/地球環境財団日本語版編集協力/社団法人家の光協会刊 1900円+税)

生態系を破壊する小さなインベーダー

日本語版に寄せて

謝 辞

第㈵部 国境なき生命体の侵入
第1章 逆行する進化

第㈼部 生態的プロセスとしての侵入
第2章 草
第3章 森林
第4章 海洋と河川湖沼
第5章 島

第㈽部 文化的プロセスとしての侵入
第6章 植民地主義
第7章 偶発的侵入
第8章 経済システムが加速する侵入

第㈿部 国際レベルで侵入対策を
第9章 環境的センスのある社会をめざして

監訳者あとがき



日本語版に寄せて

 近代日本は、おそらく他のどの先進社会よりも二つの側面がうまく融合しているように思える。一つは「文化的日本」と呼べるであろう側面、つまり寺社や水田、行き届いた礼儀作法、よく知られている美的センスなどを持った国である。もう一つの側面は「商業日本」であり、世界の貿易ネットワークの重要な中心を成している。

 もちろんほとんどすべての国が、程度はさまざまであっても、この二極化状態にあるのは間違いない。地球儀を回し、指で触れてみてほしい。そこが人の住む場所であれば、伝統的な文化と近代的な商業が何らかの形で交わっているだろう。しかし、日々の暮らしのなかで、この二つの側面の調和が日本ほど重要である国を見つけるのは難しいかもしれない。幸運にも長年にわたってときどき日本を訪れている親日派の私の目には、少なくとも、これらの二つの側面のなかで暮らす能力は、日本の社会で居場所を得るのに不可欠であるように見える。

 社会的なレベルでこの二つの側面のバランスを保つ努力は、日本社会の活力を維持するのに重要だと思われる。両者を立てる努力がもっとも明らかに現れる局面は、モノであろうと考え方であろうと人間自身であろうと、外国文化の「動き」と関係がある。日本は、日本独特のものを完全な状態で保護しながら、「価値」のあるものや「ひらめき」を受けるものを外国から獲得することの釣り合いを保つために、ほかの多くの国以上に、長い間苦心してきた。世界の貿易ネットワークでの日本の重要性が増すにつれて、この苦労が一層複雑化する傾向にあるのも、またもっともな話である。

 しかし、貿易ネットワークの内部にはもう一つの形の動きがある。 生命体の移動である。この流れは、日本だけでなく、他の先進世界やそれ以外の場所にとっても、文化の動きに比べて、実は潜在的にはるかに重要であるにもかかわらず、関心の度合いは著しく低かった。生命体の移動は、ときには意図的に行われる。たとえば、魚の新種がある国に輸入されたり、スポーツフィッシング用に川に放流されることがあるかもしれない。あるいは、家畜の飼料用に牧草地に新しい種の草のタネが蒔かれることもあるだろう。しかし、多くの場合、移動は偶発的である。古タイヤの積み荷と一緒に病気を運ぶ蚊が運ばれてきたり、未処理の木枠から森林の害虫が這い出てきたり、船底のバラスト水に紛れて大量の小さな生命体が世界中の海を渡り歩いている。

 皆さんがこれから読もうとしている本は、この生命体の移動と、それがもたらす生態学的な被害について明確な認識をしていただくために書かれたものである。その被害は、外来種が異常繁殖する生物侵入という形でもたらされる。外来種とは、原産地以外の生態系、つまり自身が進化を遂げてきた生態系とは別の生態系に入り込んだ生物のことである。外来種が新しい場所で定着すると、個体数の急増が起こりうる。その過程で、生存に欠かせない資源をめぐる争いで在来種を圧倒し、その繁殖を妨げる可能性がある。それが微生物であれば、伝染病のきっかけになりうるし、捕食動物であれば、在来種を捕食し、駆除してしまうかもしれない。

 こういったプロセスは、すべての大陸で、また実質的に世界中の主な島々で、大半の湖や河川で、そして延々と続く沿岸水域で現在進行中である。どこの場所でも、外来種は、在来種が活用するはずの資源を使い果たしてしまうために、生態系を衰退させていることだけはたしかである。そして最悪の場合、群落全体をつくり替えて、以前よりも、はるかに多様性に乏しい単純なものにしてしまうのが常である。

 本書は、日本を含む世界各地のさまざまな分野での生物侵略の様子を記している。世界の主要なすべての貿易国を相手に、日本は、依然として外来の生物を吸収し、また吐き出している。たとえば、有害な赤潮を発生させるある種のプランクトンは、本来の生息地だと思われる日本の水域から、外国の沿岸域へと移動したが、第三章に登場する線虫は、外国から日本に入ったであろう生物の一つで、松枯病の原因になっている。顕微鏡でしか見えないこの虫は、北アメリカ原産だと思われるが、数百万本もの日本のマツを枯らしてしまった。

 これほど猛威を振るっているにもかかわらず、生物侵入は、多くの人々にとって、未だほとんど目に見えない脅威のままである。環境悪化を大きなカテゴリーに分類すると、生物侵入以外のほとんどすべては、現在少なくとも、先進社会の公の会話に登場している。たとえば、化学汚染は、事実上全世界に共通する概念である。あるいは、人々は一般に、森林伐採という姿をした生息地の損失を耳にしたことがある。魚の乱獲のように、資源の過剰採取もまたよく知られた概念である。気候変動でさえ、近年のエルニーニョ現象のおかげで、今では知名度が高い。しかし、残念ながら、生物侵入の話になると、まったく知られていないのである。だが現在の侵入の度合いを長期的に見れば、世界的な森林伐採や炭素排出の現状よりも、受け入れやすいとは思えない。

 世界の生態系を保全する必要性と貿易活動のバランスをどう保つのか。これが、本書が提示する基本的な問いかけである。経済の健全さは、明らかに高度な国際貿易に依存している。しかし、生態系の健全さが、この惑星の生物の大半を、自然に発生した場所に留めておけるかどうかにかかっていることもたしかである。この二つの必要性のバランスを取ることは、新しい世紀の環境分野の大きな課題の一つになると思われる。

 さて、本書の日本語版は私の編著である『環境ビッグバンへの知的戦略』、デヴィッド・ルードマンの『エコ経済への改革戦略』に続き社団法人家の光協会から出版されることになった。

 ワールドウォッチ研究所の研究成果をより多くの日本の方々に読んでいただくためには、よきパートナーともいうべき心強い存在である。加えて、地球環境財団の福岡克也理事長、環境文化創造研究所の黒沢聰樹理事長の両氏は、いつもながらこうした出版を支えてくれた。
 この本を読まれた方々が、まずは身辺の生態系を見直して下されば、きっと著者の指摘が「現実」であることに気づかれるだろう。

  一九九九年九月

ワールドウォッチ研究所 所長 レスター・ブラウン


第1章 逆行する進化

 およそ二億四〇〇〇万年前、恐竜時代よりはるか昔、地球の陸塊はすべて一つの大陸としてつながっていた。巨大なその塊はパンゲアと呼ばれ、さらに巨大な地球の海洋の真ん中にぽつんと位置していた。やがてパンゲアは分解し、破片は地質学的なペースで、何もない広大な青い大洋の上を動いて現在のような大陸の配置となり、人類の時代になった。

 地球の大規模な構造は、人間が変えることのできないものに見えるかもしれない。だが人間の活動の趨勢は、地球の表面で太古から行われてきた進化という流れを変え始めている。地球上の山や谷、湿地や乾燥地は、自然界の生物群集が進化するための母体である。しかし、そうした場所が完全な状態ではなくなってきている。つまり、それぞれの特色を失いつつあるのである。世界経済は空前の速さで世界の生態系を混ぜ合わせ一つにまとめている。

 われわれはいま、あまり気づくことのない、しかもあまりにも大きな問題と必死に取り組んでいる。それが、生態的な大変動である。生態環境として見れば、大陸は再びまとまりつつあるし、海洋は混じり合いつつある。こうした生態的な混乱は、実際に陸地や海水が交わったとしても、そうはならないであろうと思われるほどのレベルに達している。現代の経済活動は、世界の自然システムを複雑に結びつけている。その結びつきは、古代の超大陸に存在したであろういかなるものより、はるかに包括的なものである。いってみれば、超パンゲアの登場である。

 地球は凸凹しているので、もともと生物群集を本来の場所に留めておきやすかった。生態系を取り巻く障壁(バリアー)は、その生態系内での生物の生存期間を決めるのに役立つ。障壁は特定の植物集団と動物集団を結びつけ、それらの捕食者や競争相手を締め出そうとする。また、ほかの場所で進化した病気を排除しようとする。その最たる例が、島という存在である。島の生物は隔離状態にあることから、よそでは見られない形に進化したものも多い。ガラパゴス諸島のゾウガメやハワイの「羽が美しい」ミバエなどがその例である。

 地球には、もっと微妙な障壁もたくさんある。雨を降らせる風が山脈に当たる、その風下側の「雨陰」は、森林が育つには乾燥しすぎているかもしれない。ある海流は、二つの特有のサンゴ礁を隔離しているかもしれない。自由に動き回れる生物でさえ、さまざまな障壁に支配されているようだ。北アメリカ西部の河川でふ化したサケは、たとえ海で一緒に泳いでいたとしても、それぞれの系統がそれぞれの決まった川に帰って産卵する。そうして特有の遺伝形質が守られるのである。さまざまな範囲でさまざまに微妙な障壁があるため、生物群集は特定の土地、小川、海流などに応じて進化してきた。自然の障壁は、進化のための道具なのである。

 今日では、これらの障壁は生態学的な実体を失いつつある。ますます多くの生物が移動させられているからである。例えば西大西洋のクラゲは、船舶のバラストタンクから汲み出された水とともに黒海に流れ出て、地元の水産業に壊滅的な打撃を与えている。野生化した栽培植物は、北アメリカの湿地や稀少な島の森林を席巻している。発展途上世界のいたるところで、オーストラリアのユーカリノキの人工林が自生の森林に取って代わり、ときには森林に住む先住民を追い出している。エビの養殖は沿岸漁業を壊滅させ、沿岸漁業に依存している地元の経済をも破壊する。船積コンテナからウィルスをもった蚊が出てくる。このほかにも数百通りの方法で静かに生物混合が進み、自然と人間社会の両方を傷つけている。

 地球の障壁を通り抜けて多少の移動をすることは、もちろん珍しいことではなかった。密封されている自然共同体など、一つもないのだから。海風の向きが変われば、ある島にコウモリの一群をもたらすことがあるかもしれない。雨が多くなれば、森林が平原にまで広がることもあるだろう。しかし、私たちが生み出しつつある人工のパンゲアは、そうした自然の変化とは次の三点で根本的に異なっている。

・動きが頻繁なこと —自然な状況のなかでは、新しい生物 —「外来種」 —がやってくるのは、どこでもかなり珍しいことだった。今日では船舶が入港したり飛行機が着陸すれば、いつでも起きる可能性がある。現在の外来種の出現率を一定の場所で推定すると、現在の率はこれまで自然に出現していた率と比べて数千倍も高いようだ。

 ・動きが大きいこと —過去には、生態的な大変化によって、一つの生物相(ある地域に自生する植物相と動物相)と他の生物相が混じることがあった。際立っているのは、シベリアとアラスカを結んでいた太古の陸橋ベーリンジアの例である。数千年、数万年をかけて多数のユーラシアの種(ヒトを含めて)が、新世界に入るためにベーリンジアを通過した。激しい生物的混合は、かつては地域的で散発的なできごとだったが、今日では日常的・世界的な現象になっている。

 ・「あり得ない移動」が起こるだけでなく、むしろ、それが「あり得ない」ではなくて「当たり前」になっていること —自然条件下では地球の物理的構造が、移動にとっては手ごわい障壁となる。例えば塩水で六〇〇〇キロメートルも隔たっていたり、一〇〇〇キロメートルに及ぶ砂漠が続いていれば、多くの生物はそれらを横断することなく進化していった。今日ではそれらを乗り越えて移動するのは、ごく普通のことである。アフリカ東部のビクトリア湖を覆い尽くしている水草のホテイアオイは、南アメリカからやってきた。ヨーロッパの小川にすむザリガニは絶滅しつつあるが、その原因となる病気は北アメリカの小川に生息するアメリカ・ザリガニがもたらした。フロリダのエバーグレーズに侵入しているコバノブラッシノキという樹木は、オーストラリア北部が原産である。

 世界の生態学的障壁の事実上の崩壊は、これまで分かっている限り、生物の歴史に先例のない現象である(パンゲアにも、長く変わらない障壁が数多くあったはずだ)。数世紀前から、地球上の生物群は外来種によって混乱している。そして今日、その混乱はますますひどくなっている。外来種とは、各種の障壁を越え、もともと進化していたのとは違う生態系に定着した生物のことである。そして、生物侵入とは外来種の滲透のことであり、地球の生物の種の多様性にとって最大の脅威の一つに躍り出た。

 生物侵入は種絶滅の危機の原因としてすでに、「生息地の消失」に次ぐ問題になっている。だが、物理的・化学的な破壊もほとんど「生息地の消失」として分類されるので、「生息地の消失」のほうがずっと抽象的で大きなカテゴリーである。ある種の生物にとっては、外来種は明らかに最大の脅威である。例えばアメリカで過去百年間に絶滅した魚を見てみると、その六八パーセントは外来種が原因だった。生態系を衰退させる二つの問題が混ざり合って、いよいよ一つの現象になってきているようだ。生息地が焼き払われたり、ブルドーザーで整地されたりすればするほど、わずかに残っている自然地域は侵入に弱くなっていく。今後千年の間に原野は、外来の雑草がはびこる劣化した景域のなかに溶け込んでいくであろう(第五章参照)。

 絶滅に至る場合が多いとはいえ、現在の絶滅に関する統計では、問題の全容を把握しきれていない。なぜなら外来種はしばしば、多数の在来種を絶滅の瀬戸際に追いつめることなく制圧するからである。フロリダ州エバーグレーズに侵入している樹木、コバノブラッシノキを例にとってみよう。妨害するもののないフロリダの低湿地には六〇〜八〇種の在来植物種があるのが普通だが、コバノブラッシノキの茂みに覆われた地域では三、四種かそれ以下の自生種しかいない。侵入が成功すると、このような「機能上の絶滅」が起こることが多い。在来の種はまだ存在しているが、地域のほとんどで生育密度が低すぎるため、以前のような生態上の役割を果たすことができなくなるのである。在来種の動物の餌となる植物などに、その例が見られる。

 おそらく生物侵入は環境悪化のカテゴリーとしては唯一、生物有機体のあらゆるレベルを傷つける可能性がある。景域という広いレベルでは、コバノブラッシノキのような外来種が在来の動植物群全体に取って代わる可能性がある。その逆に最も小さなレベルでは、外来種が近縁の在来種と異種交配して「遺伝子侵入」を起こし、在来種の遺伝子プールを侵蝕することがある。北アメリカ西部ではふ化場で育ったサケを大量に放流した結果、いくつかの野生のサケの個体群が衰えた。このようなケースでは、在来種が実質的に外来種になってしまっている。

 外来種の文化的影響は、生物学的な影響と同じように深刻だ。例えばヒトの病原体は、農作物の害虫や雑草などと同じようにやすやすと移動し、結果として人類全体の数を減らした。ヨーロッパからの入植者がアメリカに持ち込んだ病気は、歴史上きわめて大きな文化的危機を引き起こした。その影響は現在にまで及んでいる。征服者の到着から百年間で、西半球の先住民の三分の二に当たる三〇〇〇万人が、天然痘、マラリア、その他の旧世界の病気にかかって死亡した可能性がある。彼らは、これらの病気に対する抵抗力がなかったのである。ヨーロッパ人たちはうかつにも、自分たちがこれから探検する「危険な」荒野をかなりの程度、自分たちで「つくり上げて」しまった。今日でも鉱夫や開拓者はこうした病原体を、アマゾン川流域の先住民にばらまき続けていて、不幸な結果を生んでいる。例えば一九八〇年代の半ば以降、ヤノマミ族の約四分の一が外来の病気で死んだ。

 移住と旅行が爆発的に増え、人類のほとんどが共通の微生物システムに引き込まれている。だが、それが生み出す結果に本当に備えている社会は一つもない。最近、真性コレラが南北アメリカに戻ってきた。黄熱病がアジアを襲う日も近いかもしれない。それなのにわれわれは、伝染病が重なったときの怖さを認識し始めたところだ。

 生物侵入の社会的影響を見れば、これは病気だけに限ったものではない。外来種は農作物をだめにし、漁業資源を混乱させる。また森林や放牧地の生産力を低下させる。外来種の水草や甲殻類は、ダムや水力発電所の取水パイプ、灌漑用水路に付着して問題を起こす。外来植物のなかには、山林火災の発生回数を増やし、火災の激しさを増すものもあれば、地下水位を下げるものもある。外来種はここに示した以外にもあの手この手を使って、世界中の地域社会に毎年数十億ドルの損害を与えている。

 自然と文化の両面に与える損害は、「一般的には信じられない」プロセスを経て生じる。概念上は、生物侵入の問題とは要するに次のようなことである。ある地域にある種を加えると、なぜ結果として、その地域の生物の多様性が減るのか。例えば、あなたの家の庭の芝生の中に咲く外来種のタンポポはおそらく、その地域の植物群のなかに新たに加えられた一種にすぎないだろう。分かっている限りで唯一の被害者は、芝生の中に他の草は生えて欲しくないと考える人々だけだ。そしてほとんどの外来種は、このタンポポのような状態にさえなれないでいる。ほとんどが新しい分布域に定着できずに、死んでしまうのである。たとえ定着できても、必ずしも目に見えるような生態的影響を与えるわけではない。

 しかし個々の外来種を見ないで、プロセス全体に焦点を当てると、この矛盾は消える。深刻な問題を引き起こす外来種の割合を推定するのは難しいが、「一〇のルール」とも呼ばれる大ざっぱな経験則から言って、ある地域に導入された外来種は、その一〇パーセントが繁殖が可能な個体群をつくり出すことに成功する。そして、そのうちの一〇パーセントが、大々的な侵入を開始する。そうなるとその外来種はタンポポの状態を卒業して、コバノブラッシノキの状態になるのである。その外来種は捕食者や病気をかわし、自生していた地でその種を抑制していた要因から逃れえたのである。また新しい地には、その種に匹敵するものがなかったのである。さらにその種が対決するのは、その種が存在する場で進化してこなかった生物であり、その種と競ったり、その種から逃れるための適応をしないであろう生物である。こうしたシナリオが、世界中で繰り返される。結果、外来種が多くなり、その他の種はずっと少なくなってしまうのである。

 世界経済が地表のいたるところに絶えず、雨のように外来種を振りまいているから、それらの九〇パーセントは「不発弾」であり、実際に爆発するのは一〇パーセントのうちの一〇パーセント、つまりわずか一パーセントだという事実も、たいした慰めにはならない。砲撃は休みなく続いているのだから、爆発も続くのである。

 多くの侵入種が生態学的に爆発的な力を持ち得るのは、「雑草性」とも言える特性をいくつか併せ持っているからである。雑草的な侵入種は成長が速く、増繁殖も盛んで、分布範囲を簡単にと広げる。そして多くの場合、生態系として混乱したような状況だと特に順応する能力を発揮していく。「雑草性」の動物は、餌の面で特に順応性が高い傾向がある。いたるところで見かけるネズミやイエスズメも、北アメリカの水路に侵入しているカワホトトギスガイも、ホテイアオイやコバノブラッシノキも、すべて雑草性の生物である。

 雑草性生物が広がって、地域の多様性が侵されていくと、世界はきわめて均質化したものになっていく。どこの放牧地にも同じ草が生え、世界中の温帯地域の湖水面をホテイアオイが厚く覆うようになる。ヤギが、島という島の低木をかじって刈り株だけを残す。こうした場所では地域の生物が消えるにつれ、それらが一翼を担っていた生態系が弱まっていく。人工的に単一化され動植物群は、多くの部品を失った機械と同じで、いずれ壊れることだろう。火災とか、あるいは病気が大発生した場合、健康で複合的な群落ではたいした影響がなかったはずのそれらのことで、単一化された病んだ群落はひどく混乱するだろう。そしてその混乱のせいで、その地域はますます侵入しやすい場所になることだろう。これが、われわれの時代の特徴となりつつある衰退のサイクルである。

  * * *

 いまや生物侵入は、経済システムや自然保護技術に課せられた深遠かつ地球規模の難問となった。この難問はまた、倫理 —他の命あるものの中での「生存権」を認める能力 —にも突きつけられている。だがこれまで、この脅威に対する政治的関心は概して弱く、対応も組織的ではなかった。最悪の侵入者だけは大きく注目されるが、そのときでも侵入の出発点となった社会的・経済的プロセスについて、系統だった調査をされたことは稀である。

 なぜ反応が薄いかについて、ある程度の説明はつく。この問題そのものが、得体の知れない性質のものだからだ。生態学者たちは四〇年間も研究しているが、侵入のプロセスや、重要な手がかりとなる自然の「ルール」を見い出せないでいる。生物侵入は、政策課題としてはきわめて扱いにくいものである。鮮やかな解決策はなかなか望めない。そこで、ここはごく大まかに、まだ分かっていないことは何かについて検討してみることにする。

まず、どの生物が侵入者として成功するか分からない。成功する侵入生物に共通する特徴は見つかっていない。強力な侵入生物は、ひじょうに順応性のある「ゼネラリスト」なのは確かである。言い換えれば、雑草的なのである。だが侵入者のなかには「スペシャリスト」もいる。行動圏が巨大な生物もいれば、行動圏がとても狭い生物もいる。近縁種が同じように危険なものもあれば、侵入とは無縁と思える近縁種をもつこともある。攻撃的な侵入生物のなかにも、自らの行動圏に引きこもっていることがある。コバノブラッシノキはフロリダ南部で最も不快な有害植物の一つであるが、原産地のオーストラリア北部では、南アメリカのトゲのある低木でオジギソウの一種であるキャットクロウ・ミモザと、フロリダ州エバーグレーズ原産でバンレイシ科のポンド・アップルに押され気味である。

 「どこ」で侵入が起こるかも分からない。撹乱された生態系は概して、無傷の生態系より外来種に弱い。ユーラシア産のイネ科のカラスノチャヒキがいまや北アメリカ西部の二五〇〇万ヘクタールを支配している理由の一つは、農場経営者たちが自生の草を家畜に食い荒らさせたことだ。だが「雑草性」のルールと同じで、例外は山ほどある。例えば、ハワイの雨林で未だ生態系の混乱が生じていない残存地域で、最も優勢な昆虫が外来種であることは多い。五大湖では水質改善が海産のヤツメウナギを助けた。このヤツメウナギは捕食性の外来魚で、稚魚は汚染にかなり敏感だからである。

 侵入が「いつ」起こるかも分からない。多くの外来種は定着に成功するしばらく前に、新しい地域に入り込むはずだ。そしてその新しいすみかで、害のない、いわば良き市民として数十年を過ごすかもしれない。そしてある時、生態学的力関係がいくらか変わったり、その力関係に微妙に適応したりすると、それをきっかけに爆発的な侵入が起きる。この「潜伏期間」は植物侵入においてはよくあることなので、逆に重要な手がかりだともいえる。ほぼ間違いなく、だれでもが気づいている以上に多くの外来種が入ってきている。アメリカの雑草侵入に関する専門家によると、外来の雑草は入ってきて三〇年ほどたつか、四〇〇〇ヘクタール以上に繁茂してからでないと、気づかれないものだという。

 侵入が「何」を引き起こすかが分からない。侵入してきた外来種は単に在来種に取って代わるだけでなく、それ以上のことをする力をもっている。それゆえ驚かされる可能性はかなり高い。モンタナ州フラットヘッド川水系のアミ類であるオポッサムシュリンプを例にとってみよう。野生生物の管理官がこの小エビを導入したのは一九七〇年ころで、コカニーサケ〔湖水に陸封されたベニザケ〕の餌の基盤を増やす目的だった。コカニーサケもまた、よそから導入された種だった。このサケは水面近くで餌を食べる習性があるのだが、小エビは夜にしか水面に上がってこなかったので、サケには見ることができなかった。そのためサケは小エビを食べられなかったが、小エビのほうはサケの稚魚が餌として依存しているプランクトンを食べ尽くしてしまった。サケの個体数は激減し、その結果、サケを餌にしていたクマ、猛きん類、その他の動物が姿を消した。小さなエビが、空高く舞うワシを餓死させたのである。

 全般的に外来種は、独自のルールを作り上げ、対戦相手としてわれわれを招くのだが、試合を仕切るのは彼らなのだ。この生物があの地点にやってきたらどうなるのか。そのような問いがあるとき、自信をもって言えるのは次のようなことである。「その生物がどこかで面倒を起こしているなら、ほかのどの場所にも来て欲しくないはずだ」、ということである。環境破壊にはいろいろな形があるが、生物侵入はその主たるもののなかで最も予期しにくいものであろう。

 また、修復がきわめて難しいものでもある。一般的に、生息環境の破壊とか汚染といった環境問題に対処する鍵は、そうしたことに結びつく活動をやめることだ。もちろん、それは容易なことではないが、それが達成できれば、自然のプロセスがシステムを修復するだろう。だが、時間が侵入の苦しみをいやすわけではない。侵入の「ピークが終り」、地域資源のほとんどを枯渇させて騒ぎはおさまったとしても、外来種がいなくなったわけではない。食糧供給が回復すれば盛り返すかもしれないし、どこかほかの場所に広がっていくかもしれない。二〇年前の石油流出は今日の差し迫った心配事ではないが、一世紀以上前に始まって今日の緊急課題になっている侵入は数百件もある。この「生物汚染」は、一筋縄では修復できない汚染である。適応し、生き残る道を探し、時間をかけて小さくなる代わりに、自らを安全な場所に置くのである。

 侵入の生態学には悩ましい問題がさまざまあるが、それでも外来種が政策的関心を呼んでこなかったのには別の理由がある。外来種はあまりにありふれたもので、われわれを取り巻く環境のごくふつうの部分だから、外来種がいるからといって、それが機能不全を指すものではないからである。外来種を拡散させる風潮は、文化のなかにしっかり根付いた、ほとんど普遍的ともいえる一面である。数千年の間、世界中の人々は必要がある、あるいは喜びや楽しみを与えてくれるという、二つの理由で外来種を分散させた。それは食糧を得るためだったり、自分たちが住む景域を作り上げるためだったり、庭や森林に種子をまき、川に魚を放流するためだった。偶然の分散も、文化のなかの変わらぬ一面のようだ。人類はこれまでずっと放浪する種であった。そして人類から利益を得る生物——病気や寄生虫、害虫、蚊やノミなど——に、地球という生息地を提供してきた。

 侵入は場所を問わず、程度や方法の違いこそあれ、人類の過去において一般的な、だが重要なものだった。しかし他の環境悪化要因と同じで、地域的な小さな問題である場合と、激しさを増して地球規模の問題になった場合とでは大きな違いがある。地球レベルの生態的混合は、大発見の時代が幕を明けた五百年ほど前から本格的に始まった。それが今日、世界経済の出現で、論理的な予想をはるかに超えたものになっている。現行レベルの侵入は、現行レベルの森林伐採や炭素ガスと同様に、決して環境を維持できるものではない。生物侵入は、現代の経済秩序の環境破壊度を測る新たな基準になっている。

 現在の割合だと、生物侵入は「文化の持続」も不可能にするかもしれない。侵入によって、景域から「自然のままの状態」が奪われている。侵入は、唯我論のようなものは文化的に消滅しつつあるのだと警告している。唯我論的な考え方だと、自然を自然として経験することが難しくなる。人間は、本来は自らの病気のことだけを考えて病室にこもっている患者ではない。いわば、院外保護の身なのである。社会的な繁栄や心理的な幸福は、理解できない多くの面で、自然全体の繁栄と結びついているのではないだろうか。きれいな水と空気が必要なのと同じように、自然にとっての「独立者(他者)たること」が必要なのかもしれない。

 しかし自然の営みの規模に比べると、人間の記憶は短い。それぞれの雑草がもともとどこから来たかを、誰がいちいち覚えていられるだろう。それに、定着した外来種をまるで在来種のように再命名するから、どうしても忘れるのが速くなってしまう。侵入生物に降伏するのが、最も現実的な対処法に思えてしまうことは多い。おそらく自然界はいずれ、こうした生物の多くを変形させるのだろう。多くの外来種が群れごとに適応放散していると、最終的には別々の進化をするようになり、それぞれの自然域で別個の種になるかもしれない(植物の病気のなかには、すでにそうなっているものがあり、困った問題になっている。そのようにして生まれた新しい病原体は、新たな侵入者となる可能性がある)。

 しかしながら多くの生物は、いま生きているわれわれに大きな影響を与え得る時間の単位で、そのような変化を起こすことはない。一方で、在来種と外来種の区別をはっきりさせないのは、戦術的な誤りである。なぜなら、そうしていると人々は、どの侵入種を見ても、在来種へ変化しつつあると考えてしまうからだ。生態的混合が現在の割合で続いていけば、いつの日かエイズウィルスも良性のものに進化するだろうから、エイズのことは気にしない。そのような考え方と、どこか似てしまうことになる。

 それに、外来種に降伏する必要はないのである。侵入によって生態的にも社会的にも恐ろしい問題が起きているが、これを迅速に改善するのに必要な手法をわれわれはすでに持っている。いま最も努力すべきことは、文化的なことであって、技術的なことではない。人類が全世界を駆けめぐる今日、侵入の心理 —侵入を避けられないもの、あるいはむしろ望ましいものとして受け入れる、自然に対する姿勢 —とはもはや共存できない。この心理を捨てる秘訣は、歴史的意識とでもいおうか、侵入が社会構造として最初にどのように行われたかを意識することである。現在かかえている問題は、長い時間をかけて人間が生み出してきたものである。それらの問題に効果的に対処するためには、現在の生態の状況を理解するだけでなく、「侵入の文化」の歴史を理解する必要がある。

 現代のエコロジーと文化的な過去。これから展開される章では、この二つの問題を、それぞれ異なった視点から扱う。第・部は主に、生態的プロセスとしての侵入を取り上げる。第二・三・四章では、非常に大きな三つの生態系と、それと密接に関わる一次産業について概観する。草原と農業、森林と林業、海洋・河川湖沼と漁業である。第五章では侵入によって最も大きな被害を受ける「島」について検証し、問題全体のモデルとして提示する。第・部では、主に文化的プロセスとしての侵入をとらえる。まず、二つの文化的侵入の歴史から始める。最初に意図的なもの(第六章)を、次に偶発的なもの(第七章)を紹介する。第八章は経済と関連づけ、世界経済そのものが均質化を推進していることを検証する。第・部の最終章では、侵入という地球の病気の治療のために、法律・政策・生態学・個人のレベルで何ができるかを改めて検討する。