ワールドウォッチマガジンより
前編:21世紀を動かすミニ企業≪1≫
見返りのない信用貸し
ここ数年、社会問題に関心のある貸し手は、経済的な失敗に直面している人々にとって、家族を養う必要性は、財産を失う恐れと同じくらい強力な信頼性の指標になると表明し始めた。
女性の世界銀行(Women's World Banking)と呼ばれるインドのミニ融資組織の議長を勤めるエラ・バット(Ela・Bhatt)が思い出したある出来事がこれを示している。「1975年、私たちの銀行もさほどリスクを抱えていなかったときですが、絶体絶命というほど経済的に追い込まれた一人の野菜売りの女性がやってきました。夫は繊維労働者でしたが失業中で、毎日ぶらついてはどうにか胃袋を満たしていたのでしょう。でも彼女や子供にはとても大変な状況でした。私たちは、彼女に対し50ルピー(75年当時で約5ドル50セント)の融資を決め、誰かが彼女と一緒にコリアンダーやミント、生姜、ニンニク、トウガラシといったものを買いに出かけました。その日はSEWA(女性自営業者組合:Self-Employed Women's Association)が、病気で空腹だった子どもたちの面倒を見ました。彼女はこの日、仕入れたものを売って6ルピーを手にいれ、夜には家に食べ物を持ってかえりました。それから日に日に仕事の形を整えていき、翌週には51ルピーを返済したのです。この融資は、銀行にとってはリスクというようなものではありませんでしたが、彼女にとっては本当に生きるか死ぬかという意味を持っていました。それ以来、私たちはこの50ルピー融資を多くの女性に広めるようになったのです。」
この種の貸付けの主な実例として、最初に挙げられるのは1978年にバングラデシュで行われたものである。この国の国名は実質的に貧困という言葉と同意になっている。チッタゴン大学の経済学教授であるモハマド・ユヌス(Mohammad Yunus)は、貧しい村民の支援を目的とした実験を開始した。通常のルールを無視し、精米、人力車、織物といった小規模な事業を始める資金を無担保で融資したのである。担保の代わりに、借り手は小グループを組み、相互責任条項に同意することになっていた。誰かが債務不履行となった場合、残りの者が自分の利益から返済しなければならないというものだ。条項に関わる者はお互いをよく知っており、順調な返済に向けて仲間の集団圧力が生まれたうえ、他の収入源がほとんどないような地域では、止むにやまれぬ必要性も加わって、この融資は驚くべき結果をもたらした。最初の2年が過ぎたころには、ユヌスは返済率が99パーセントに達していることを知った。その頃には正式にグラミン(Grameen)銀行となったこの実験は、さらに広がり、途上国の伝説のようになった。
グラミンのスタイルは広く注目され、1980年代半ばまでには、非営利の援助組織によって世界中で同様の計画が作られた。ラテンアメリカでは、伝統的な慈善団体として活動していたプロデム(Prodem)という非政府組織が、受け取った寄付や助成金を、ミニ企業を始める貧しい借り手に融資という形で分配していた。しかし90年になると、プロデムはバンコソル(Bancosol)という組織に変わった。貸し付けている金を失わない限り、また商業経済市場への融資や過去の融資の利息集めを通して増資すら可能なうちは、商業銀行のような機能を果たすという組織である。
バンコソルのような組織から小企業への融資が順調に返済されるにつれて、より慈善的な性格の強い組織もこれに倣い、寄付に依存する体質から、外部の援助に依存しない、あるいは以前のように大幅には依存しない、独立した金融組織へと変身した。パラグアイでは、協同開発財団(Foundtaion for Cooperative Development)と呼ばれる非営利団体が、過去10年間に1万5000社を超えるミニ企業に1800万ドルを融資し、2万件の雇用を生み出した。昨年のある日、この財団は、ミニ企業向けの新規融資資金調達のため、証券取引所で15万ドル相当の債権を売りに出したが、この売り注文は10分足らずで売り切れとなった。
一方グラミン銀行は、最近になって、投資家に信頼を与えるため20年間の実績を示し、バングラデシュの6つの商業銀行に年利4パーセントから6パーセントで1億6300万ドルの債権を売った。グラミン銀行が、寄付あるいは、援助国政府や国際農業開発基金(International Fund for Agricultural Develoment)からの長期低利貸し付けへの依存から抜け出した第一歩である。この債権から得た資金に加えて、グラミンの幹部は、他のミニ融資機関の幹部同様、過去の融資から得た利益を再投資しているが、ミニ企業が支払う金利は通常20パーセント前後であり、返済率も98パーセントを上回ることが多いことから、これはかなりの金額になる。一般の銀行からは決して融資してもらえないような低所得の人々が、いまではグラミン銀行のようなミニ融資機関に相当な利益をもたらしている。
何がミニ融資を成功させるかについての理解は、1970年代後半以降、ミニ融資が世界の最も小さな企業を相当数支えつつあるというところまで進んできているだろう。20年間の経験は、ユヌス博士が見い出した高い返済率の信頼度をしっかり裏付けた。結局これは、相互責任の有効性のみならず、信用調査コストの切り離しと、融資に併せて申請者に支援サービスを提供するというユヌスの用いた二つの技法に帰するものである。
信用調査の切り離しは、一般の銀行から融資を受けるミニ企業にとってこれまで深刻な障害だと思われていたもの、つまり小額の融資の処理費用が融資総額を超えうるという懸念を取り去った。共同体の開発銀行は、顧客自身に調査させるという巧みな解決策を見い出した。グラミン銀行を創ったとき、ユヌスは、貸し手が責任を負うほかに、5人ないし6人のグループ内の借り手の各々に対し、他の人間の債務を共有するよう求めた。その結果、この融資には諸経費が驚くほどかからなかった。
試験的な事業を成功させるための支援サービスには、アドバイスや技術援助、そしてときには無償の労働力や施設さえ含まれる。これらすべては借り手グループに所属する仲間や、貸し手の代表者によるものである。オブザーバーの中には、これらのサービスが、おそらく貸付金そのもの以上に、ミニ融資成功の大きな要因だと確信するようになった人もいる。バージニア州アレキサンドリアの例では、借り手は英語を話さなかったので、FINCAの代表者は、s-e-v-e-n-t-y(70)の綴りを借り手の一人にそっと教えた。そして彼女は小切手に書き込むことができた(他の国では、読み書きができず、名前が書けないため、書類に拇印で署名する借り手も多い)。借り手グループのメンバーは、しばしば顧客を紹介し合い、製品を購入し合い、金の管理方法を教え合っている。 さらに非公式分野の地下経済にはびこる可能性のある贈収賄の多くが、この融資構造によって抑制されている。グラミン銀行では、すべての取り引きがグループの代表と仲間のいる場所で行われる。また銀行の首脳も年に1度交替するため、この透明性が権力乱用の機会を抑えているのである。
ある融資組織は、債務の共有、仲間の支援、少ない経費など返済率の高さに貢献しているすでに証明済みの方策を掲げて、宣伝用の資料の中で、「これらの銀行は貧しい者のための世界銀行へと急速に発展している」と記している。モハマド・ユヌスも同意しているようだ。1997年初めにワシントンD.C.でミニ融資サミットを開催する計画を立てるため、ユヌスは昨秋、別のミニ企業グループの代表と会った。公表されているこのサミットの目標は、2005年までに世界で最も貧しい家庭1億世帯に、そして特にこれらの世帯の女性に手を差し伸べることだとユヌスは語った。
援助の届かないところに援助を
これらの小企業は、途上国で公民権を剥奪された貧しい人々への支援に加えて、先進国でも存在価値を高めつつある 。たとえば、1970年代に登場したアメリカ大都市部の貧民街の多くは、暴動の傷跡が残り、中流階級の大規模な郊外への脱出によって形骸化している。中心部は荒廃し、一般の銀行によって立ち入り禁止のラベルが貼られたままである。貧民街への援助は、食料品の割引切符や助成金、福祉といった計画に限られてきた。これらは必要かもしれないが、ハーバードビジネススクール教授のマイケル・ポーター(Michael Porter)など何人かの専門家は、経済の安定や成長への長期的な基盤を築くことにはならないと考えている。貧民街はミニ企業にとって不毛の地かもしれないが、ここの市場は、特に小売、金融サービス、個人サービスの分野の需要が満たされておらず、新しい企業家にとってチャンスはたっぷり残されているとポーターは言う。
ワシントン州シアトルでは、カスカディア・リヴォルビング融資基金(Cascadia Revolving Load Fund)と呼ばれるミニ融資グループが、強力な支援サービスとミニ融資を一緒に提供することで、ポーターの評価を裏付けた。この組織は、経理や複利厚生計画から市場調査にいたるまで、さまざまな項目について専門的な援助を与えてきた。8年後にはおよそ200万ドルを貸し付けるようになったが、損失は1パーセント足らずである。幹部のパティ・グロスマン(Patty Grossman)は、「一般の銀行が手を出さなかったような分野なら彼らに対抗できる」と語っている。
ミニ企業の役割がさらに強まる方向にあることを示しているのは、失業問題だけでなく、それ以上に雇用市場に広がっている変化である。その変化は、同時に発生しているいくつかの傾向に見ることができる。つまり、臨時労働や下請け労働への大幅な依存、通信機器を使った在宅勤務やワークシェアリングの傾向、雇用は結婚のように長期的な安定した関係だという古い考え方の著しい衰退といったものである。日本においてさえ、雇用の安定保証は、かつてのように雇用者と被雇用者のあいだの不可侵の絆ではなくなっている。
先進国がこの方向に進んでいるのは、ある意味では、逆に途上国の雇用戦略を追随しているといえる。先進国は、僻地の経済や貧しい国家をこれまで支えてきた小企業、ミニ企業、個人企業の発展にむしろ力を入れている。ただし、先進国では、このような小規模な事業は、コンサルティング会社か独立した契約請負業者であることが多い。企業の統合合併でこれまでの被雇用者が切り捨てられているため、彼らのこなしていた仕事の大半は、そのような請負業者やコンサルタント会社が行っている。
このような傾向は「脱職務」と分類され、作家のウォルター・トゥルット・アンダーソン(Walter Truett Anderson)によれば、多くの経済学者や経営管理の専門家、未来学者らが「職務の終末」を今では気軽に語っているほど、この過程は進んでいるという。人々は、ある職務を自分のものにするのではなく、ただ労働をこなすだけになるだろう。事実、職務とは比較的最近の社会的発明である。ウィリアム・ブリッジが 「職務の移り変わり(Job shift)」 という著作に記しているように、「1800年以前は、そして場合によってはそれ以降も、職務は常にある特定の務めを指すものであり、組織の中の役割とか地位を指すことはなかった。」職務とは持つものでなく、こなすものだったのだろう。
この変化の影響は、世界の労働力の流動性が高まっていることで、さらに強くなっている。より豊かな社会では、売り物になる能力を持った人々が自由に動き回っている。以前なら、どこに住むかを仕事が左右していたかもしれない。逆も真なり、であった。しかし今は、多くの人々がそのどちらも選択する。ある化学技術者は、かつてならニュージャージー州のシーコーカス(Seacaucus)かルイジアナ州のメタリー(Metarie)に住まなければならなかったかもしれないが、今は、技術者として働きながらコロラドの山の中に住みたいと思えば、性能のいいモデムと近くに空港があれば実現可能である。
一方で、困難を抱えた国々では、市民の蜂起や環境面・経済面での崩壊がもたらした労働力の移動で、先進国と無関係ではないにしろ、きわめて異なった形で、独立企業を頼みの綱とする傾向が生じている。たとえば移民は、受け入れ国の職場に直ちに歓迎されることはないだろう。柔軟性と機知を働かせて、自らの居場所を作り出さなければならない。移民の多くは、夜間労働や時間労働、あるいはジョブシェアリングに頼っている。東ヨーロッパでは、このような人々が「モーレツ商人や貿易商、自主メーカー、自由契約の販売業者になる」とアンダーソンは書いている。
続き 後編:21世紀を動かすミニ企業≪3≫
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